株式会社海連

海連のあゆみ

HISTORY

焼酎メーカーとの出会いで潮目が変わる

取締役会長の永井秀樹は、父親である永井一十(いちじゅう)が鹿児島県薩摩川内市港町で始めた海産物の会社「永井商店」を兄弟4人で引き継ぎ、切り盛りしていました。
永井秀樹はお客さまのニーズに知恵とアイデアで応えする、抜群のアイディアメーカーでした。
今までにない発想を生み出し、近未来をも想定した新しいビジネスモデルを次々と生み出していきました。
時代に先がけ、思いついた自身のアイデアをすぐに実行したい…、そんな考えのもと平成11年1月5日に独立し、『海連』を創業しました。

不動産業を主軸とした「有限会社海連ビル」の誕生です。

テナントビルを買って店舗別に改装し、飲食店ビルとして新たにスタートさせるビジネスを始めました。
今でこそ当たり前になっていますが、その当時はまだ珍しかったビルをリノベーションし、新たな価値をつけてオープン。本場中国から料理人を招聘した中華レストランや、地元の新鮮な海鮮を楽しめる寿司店など、オープンした店は話題となり、連日満席、人気の繁盛店が次々と生まれました。
永井秀樹が薩摩川内市界隈に飲食店ビルをつくると、お客の流れがガラリと変わりました。繁華街の位置さえも変える手腕に「永井秀樹はまちをつくる人」と言われました。

平成12年、知人からの紹介で阿久根市に冷凍倉庫を買い、倉庫業をスタートすることになりました。鹿児島の西海岸にある阿久根市は雄大で豊富な資源の宝庫、東シナ海に面しており漁業が盛んでした。漁業の餌や獲れた鮮魚、またそれらを加工した蒲鉾や丸干しなど、倉庫業は順調に業績を伸ばしていました。
しかし平成15年、環境の変化からか海連の倉庫で主に保存していたイワシがまったく獲れなくなったのです。やがて倉庫に保管するものがなくなり、経営はたちまち厳しいものとなりました。倒産するかもしれない…、永井秀樹はかけずりまわって、いくつかの企業に倉庫売却を打診するものの、いずれも契約まで至りませんでした。その一方で、社長の永井幸枝は強い信念を持って、売れないということは倉庫業を続けろということ、今がふんばり時だ、と会長を励まし続けました。結果的には、倉庫が売れなかったことが、功を奏したのです。

平成16年になり、サツマイモを保存する冷蔵庫を探している企業があるという話が舞い込みました。永井会長が何度も日本冷蔵倉庫協会に足を運び、相談してきた結果が花を咲かせた瞬間でした。
世の中に空前の芋焼酎ブームが起こり、それまで麦が主流だった焼酎市場の中、芋焼酎が一気に市場を席捲して行きました。鹿児島の焼酎メーカーはこぞって芋焼酎の生産設備を拡充、それに伴い、芋焼酎用サツマイモの冷凍倉庫が必要になったのです。
海連は鹿児島のある商社となり、焼酎用の芋の蒸し加工・冷凍保管業に注力しました。しかし、その会社の材料に対する考えが、弊社の「厳選した最高の材料で最高の商品を」という考えとあまりにもかけ離れていたため、取引をお断りすることに。また一からお客様を探さなければならなくなりました。
平成17年に入ったころです。地元の酒造メーカーと仕事をする機会に恵まれました。弊社の理念にも共感をしてくれるその酒造メーカーのために、焼酎用甘藷の加工もお手伝いすることになりました。
阿久根の倉庫に隣接し、焼酎用に甘薯を加工する設備を完備し、新たに加工業をスタートさせました。
同年にはWTOのTRIPS 協定に基づき「薩摩」が地理的表示の指定を受けました。これは原料に鹿児島県産サツマイモを使用し、県内で製造・容器詰めした本格焼酎にのみ表示できるもので、鹿児島県酒造組合ではこれを守り育てるために「薩摩焼酎宣言」を発表し、薩摩焼酎認証ブランドマークを制定しました。酒造りは「原料」と「原料処理」が命、鹿児島県産芋焼酎という誇るべきブランドを汚さないためにも、海連では甘薯の加工業を始めた当初から最高の品質のサツマイモを仕入れ、それは今も厳守しています。サツマイモの出来によっては、納品をお断りすることも。「なんという会社だ!」と陰口をたたかれることもありましたが、それだけは曲げられません。質のいい原料のみを選別し、必要に応じトリミングへ。黒斑病は「軽症でも廃棄」等のメーカー又は自社基準を遵守して作業します。それが海連の基準となっています。

焼酎用芋の加工が行われるのは9月から12月、4ヶ月間の集中作業になります。9月の作業開始に向け、毎年100人のパート社員を雇いました。募集は社長の永井幸枝が担当しました。
しかし、せっかく100人を雇っても加工時期が終わると解散。無職となった100人は、またあらたに仕事を探さなければなりません。海連の都合で4ヶ月間だけ来てほしいとわがままを言ってもいいのだろうか。これではいずれ人が来なくなるのではないか。永井幸枝は思い悩みました。とはいえ、残りの8ヶ月間、仕事もないのにパート社員を雇用し続けるような資金的余裕があるわけではありません。ならば、焼酎用の加工以外の仕事をつくれば、いいのだ! 全く新しいことに着手するのではなく、精通している「いもの加工」を底上げしようと考えました。

焼酎用芋の加工が終わったあとの1月から8月までは干し芋や焼き芋など、サツマイモの加工を行い、自社加工商品「いもや伊七郎ブランド」として製造販売することになりました。やがて、8ヶ月間のみならず、一年を通して、いもの加工を行うようになりました。
そうして一年を通して海連で働く人を確保できるようになったことが、職場のスキルアップや、仕事への意識の高さにつながり、「サツマイモの海連」と定評を得るまでに成長しました。
私たち海連の社員は、サツマイモのプロであると誇りをもっています。
プロとして徹底して、そして楽しく働いています。人にはそれぞれに価値観や生き方がありますが、単にお金のためだけに働くのではなく、働いている時間を有意義なものとする。
楽しく、やりがいをもって働くことを大事にしています。
サツマイモのプロとして、サツマイモの価値を見出し、サツマイモとエンドユーザーをつなぐ懸け橋の可能性をもっともっと広げていきたいと考えています。